カトリック菊名教会

巻頭言

叙唱を味わう(4)

 典礼暦のクライマックスは「この夜」と呼ばれる復活徹夜祭にあり、一年にわたって展開する主日のミサの原点はここにあります。過ぎ越しの秘儀をくり返し祝い、救いの恵みを感謝するのはまさに「この夜」から出発するからです。

 「この夜」のミサの叙唱は次の通り。「聖なる父よ、いつでも、また特にこの夜、あなたをたたえ祝うことは、まことにとうとい大切な努め。御子キリストは私たちの罪を身に負って十字架につけられ、その死によって私たちの死は滅ぼされ、その復活のうちにすべてのいのちが復活します。キリストを信じる者は光の子として生まれ、天の国の門が開かれて、永遠のいのちにあずかる者となります。」(以下、省略)

 言葉をもってここで簡潔に言い表されていることは、イエスと行動を共にした弟子たちの目撃と予想だにしなかった体験です。十字架といういまわしい出来事がそれで終わらず、名状しがたい「何か」を引き起こした――この一連の成り行きは「過ぎ越しの秘儀」と名づけられ、「信じる」しかないキリスト信仰の根本として伝えられていったのです。私たちが今年も典礼的な演出をもって祝い直す祝祭の根本は、伝えられ証しされてきたこの「秘儀/奥義」にあります。

 十字架だけを強調するのは「キリスト信仰」にとっては不十分です。「復活」とつなげて、すなわち「十字架から復活へ」という人知を超えた一連のダイナミズム(動き)こそ人から人へ、時代から時代へと証しされてきたキリスト信仰の根幹なのです。ここに記した「序唱」はそれを見事に簡潔に表明しています。日本語で「復活」と訳された言葉は、「元に戻る/蘇生」ということではなく、「死(滅び)から永遠のいのちに立ち上がらせられた」ということで、それが聖書的な本来の意味です。

 私たちのいのちは、「生」という文字でくくられますが、しかし「生」は生物学的「生命」であり、日々の「生活」であり、そして生きられていく「人生」をさしています。しかし、いずれの局面も時間の推移の中にあっては有限かつ無常で、しかも常に危うさとナンセンス(無意味)の脅威にさらされています。その上にその根っこには決まって「傲慢、自己中心、支配欲」という不思議な力がうごめいています。今日の独裁者たちの言動をみてください。暴力と恐怖をもって罪のない人々を「滅び/無意味さ/絶望」へと追いやっているではありませんか。しかし、「御子キリストは私たちの罪を身に負って十字架につけられ、その死によって私たちの死は滅ぼされ、その復活のうちにすべてのいのちが復活します。」と教会(キリストを信じる人々の群れ)は高らかに宣言して、滅びではなく生きる希望を指し示すのです。

 叙唱で滅びへのあらがいは、「復活のいのち」「永遠のいのち」「光の子」という言葉で示されています。「いのち」の内実は、絆・つながりの実感と喜びにこそあり、私たちはそこに生きている「意味」と自分の存在理由をみつけ、あらゆる苦しみを乗り越えようとします。愛を信じて限りあるこの世の「生/いのち」をもってたがいに築き上げていく「絆」は、無駄になるどころか、いのちの与え主である父なる神によって「永遠のいのち(きずな)」へと引き上げられる――これを序唱は「キリストを信じる者は光の子として生まれ、天の国の門が開かれて、永遠のいのちにあずかる者となります」と高らかに歌うのです。ここには「今、ここで生きている」現実のおそるべき深みと、人間の尊厳の根拠が露呈されているのではないでしょうか。(2026・3・29記)